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MEIDI-YA Archive

いつも、いちばん、いいものを。明治屋133年の歩み

明治屋の歩み

明治屋の原点は、創業者、磯野計の人となりと、その歩いた道にある。
「丈夫たるもの須らく独立して事に當るべし」という信条に根ざした開拓者精神は、
食文化のパイオニア「明治屋」として、今日まで脈々と受け継がれている。

磯野計は4年間の英国留学によって得た貴重な体験を基に、1885年(明治18年)、横浜に「明治屋」を創業。日本郵船の船舶への食料品・雑貨納入を手始めに、総合輸入商、食料品卸・小売業の基礎を固めていきました。

当時は不平等条約の下、貿易といえば欧米の独占状況にあった時代。磯野計は自信を持って世界各国の商社と直接商談を展開し、明治屋の事業を拡大。そうした創業者の姿は、まさに「丈夫たるもの須らく独立して事に當るべし」を実践したものでした。この開拓者精神は、いまも明治屋の根幹理念として受け継がれ続けています。

磯野計

明治屋創業者、磯野 計(いその はかる)

明治屋社屋

1891年(明治24年)、横浜のメインストリート本町1丁目13番地に新築された「明治屋」社屋。壮麗な西洋スタイルの商店で、1923年(大正12年)の大震災まで明治屋の本拠地であった。

世界の一流品を輸入提供するとともに、優れた国産品を販売することにも力を注ぎ続ける。
幕末の志士たちと親交を結んだイギリス人貿易商グラバーと磯野計との出会いが、
「明治屋」と「キリンビール」を堅く結びつける縁となった。

1883年(明治21年)、「明治屋」は「ジャパン・ブルワリー社(現在のキリンビール株式会社の前身)」と総代理店契約を締結し、「キリンビール」の一手販売を開始しました。当時、ジャパン・ブルワリー社は、国内にビールの市場を広げるために、日本人による積極的な販売代理店を必要としており、明治屋の磯野計は、親交の深かったジャパン・ブルワリーの発起人であるグラバーの強力な推薦を受け、キリンビールの出荷から販売、代金回収までの全責任を引き受け、全国に広がる強力な販売網を築いていったのです。

キリンビール宣伝カー

キリンビールの宣伝カー(1909年(明治42年))。警視庁登録番号が「第1番」であったことから「ナンバーワン自動車」の愛称で親しまれた。

キリンビール宣伝カー

幌型に改装されたナンバーワン自動車(1912年(明治45年))

絶対に防腐剤を含まず。特製「名譽月桂冠」壜詰の一手販売契約。
それは、明治屋が創業以来、堅持してきた基本理念「良心」の証しであり、
品質本位、公正な取引、その相互信頼が発展の大きな原動力となった。

1915年(大正4年)、明治屋は大倉恒吉商店(現在の月桂冠株式会社)との間に、防腐剤を全く含まない特製「名譽月桂冠」壜詰の一手販売契約を結びました。樽詰清酒が主流であった時代に、壜詰清酒の流通を広めたのは、品質向上のための懸命の努力と明治屋の信用にあったといえます。

名譽月桂冠

1915年(大正4年)から明治品が一手販売した防腐剤を含まない特製「名譽月桂冠」壜詰

すぐれた品質、洗練されたデザインのMYブランド製品の登場。
欧米型食生活へと移行しはじめた日本人の食生活、そして「消費者の時代」を迎え、
様々なニーズに合わせて開発されたバリエーション豊かな製品。

飛躍的な高度経済成長期へと向かう昭和30年代、日本人の食生活が大きく変わりはじめていることを見据え、MYブランド製品もジュースやピーナッツバター、コンビーフなど、欧米風の商品を次々と発売しました。

明治屋PR紙

1950年(昭和31年)、明治屋の企業PR誌「嗜好」の391号に掲載されたMYブラント製品の広告

MYラックのラベルデザイン

1960年(昭和35年)、アメリカの有名なインダストリアルデザイナー、ウォルター・ランダーによる洗練された「マイラック」のラベルデザイン。