明治18年(1885年)、磯野計は、明治13年から4年間の英国留学によって得た貴重な体験を基に、わが国の近代文明の幕開けの地横浜に「明治屋」を創業。日本郵船の船舶への食料品・雑貨納入を手始めに総合輸入商、食料品卸・小売業の基礎を固めていきました。
不平等条約の下、貿易といえば欧米の独占状況にあった時代、磯野計は自信を持って世界各国の商社と直接商談を展開し、明治屋の商売を拡大。そうした創業者の姿は、まさに「丈夫たるもの須らく独立して事に當るべし」を実践したものでした。このパイオニア精神は、いまも明治屋の根幹理念として受け継がれ続けています。
明治屋創業者、初代社長として横浜において船舶納入業、食料品卸業、小売業、および欧米の著名酒類・食料品の直輸入をはじめる。
明治24年、横浜のメインストリート本町1丁目13番地に新築された「明治屋」社屋。壮麗な西洋スタイルの商店で、大正12年の大震災まで明治屋の本拠地であった。
明治21年(1888年)、「明治屋」は「ジャパン・ブルワリー社(現在の麒麟麦酒株式会社の前身)」との総代理店契約を締結し、「キリンビール」の一手販売を開始しました。当時、ジャパン・ブルワリー社は、国内にビールの市場を広げるために、日本人による積極的な販売代理店を必要としており、明治屋の磯野計は、親交の深かったジャパン・ブルワリーの発起人であるグラバーの強力な推薦を受け、キリンビールの出荷から販売、代金回収までの全責任を引き受け、全国に広がる強力な販売網を築いていったのです。
大正4年、明治屋は大倉恒吉商店(現在の月桂冠株式会社)との間に、防腐剤を全く含まない特製「名譽月桂冠」壜詰の一手販売契約を結びました。樽詰清酒が主流であった時代に、壜詰清酒の流通を広めたのは、品質向上のための懸命の努力と明治屋の信用にあったといえます。
大正13年の大阪朝日新聞他に、一壜ごとに貼付されている封緘を広告モチーフに用いるとともに、高品質の証しとして大阪市立衛生試験所長医学博士の証明書が広告として掲載された。月桂冠の宣伝活動は、特に大正後期から積極的に展開され、新しいポスターや広告塔などによる斬新なアイデアとユニークさで話題を集めた。
飛躍的な高度経済成長期へと向かう昭和30年代、日本人の食生活が大きく変わりはじめていることを見据え、MYブランド製品もジュースやピーナッツバター、コンビーフなど、欧米風の商品を次々と発売し、大好評を得ていくこととなります。
昭和31年、明治屋PR紙「嗜好」(明治41年創刊)の391号に掲載。
アメリカの有名なインダストリアルデザイナー、ウォルター・ランダーによる洗練された「MYラック」のラベルデザイン。昭和35年。